「into the wild」に見る生き方の哲学
こんばんは僕です。
先日友人に薦められてショーン・ペン監督の「into the wild」(邦題:荒野へ)を見ました。紹介してくれた友人はスリランカで一ヶ月ジャングル生活をしたり、オーストラリアでヒッチハイクでぐるっとまわったり色々とパンチのあるやつなので、紹介してくれた映画もそんな感じなのかなーと思って観たらそんな感じでしたw
あらすじは、「裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ったクリスは大学を優秀な成績で卒業する。両親はハーバードのロースクールに進学することを望んだが、金で物ばかりを与える親に嫌気が差したクリスは学資預金を寄付し、身分証を切捨て、この世界の真理を求めアラスカへと旅に出る。旅路の中で様々な人と触れ合い、本当の幸せとは何かを知る。」(wikipedia参照)
現実的に「一人で生きる」のは無理なわけです。この映画でも描写されているように、誰かの力を借りる事でいろんなものを学び、与えてもらいながら生かされているのが私たち人間です。映画の中でヒッピーとして生きているカップル、レイニーとジャンに出会ったときにも家族の描写があります。ある程度俗世間から切り離された人でも、誰かの親であり子であり友人である事は切り離せない。できあがったコミュニティから脱出した人々が、その先でつくるのも結局「新しいコミュニティ」なわけです。
人間はその「コミュニティ」的考えから脱出することはできないんですね。僕は主人公のクリスと同い年ぐらいなので、すごく気持ちがよくわかります。
けれども結局わかったことは、人間はコミュニティに属する生き物で、コミュニティから外れると文字通り死んでしまうということなんです。クリスは非常に頭はキレるが、少し頭でっかちな若者として描写されています。それは確かにそうかもしれなません。けれど、それを受け入れるコミュニティも存在していることもしっかり描かれています。
僕はここにすごく救いを感じるんです。「若い」ということは良くも悪くもエネルギーの塊です。ベクトル次第で、どっちにも爆走できるエネルギーです。これを受け入れる受け皿があるというのは、多くの若者にとって希望とも言えませんか?
クリスのような行動を「頭のおかしい若者の気違いな行動」と捉えるのは少し寂しくもあります。誰でも持ちうる社会への疑問の答えを探しにいった若者の姿を滑稽に捉えないでほしいと心から思います。
印象的なシーンがあります。
死にいたる直前、食糧が尽き、狩猟後の保管が上手くいかず、マッシュポテト?と間違え毒草を食し、「Happiness is only real when shared.」と走り書きをします。
「幸福は誰かと共有できたときに実感できる」
その通りなんです。お腹が満たされることや、アラスカで見つけた廃バスでの生活も、誰かと共有できなければ、ただの生命活動の一環に過ぎないんです。
生命活動ではなく、コミュニティの中で起きる「社会活動」こそが「人間らしく生きる」ということ。それをクリスは死ぬ間際に知ったのではないかと僕は思います。
僕自身社会から逃げ出したいことはよくあります。辛いことも多いです。けれど、社会から切り離された真の孤独からは、本当の人間らしい生活はできないんです。それを踏まえて、物質的な満足も俯瞰的に捉えながら、社会の中で心地よく人間らしい生活を営む。そんなことを心がけながら生きていくのが一番楽なのかなと。
この映画の2時間でそんなことを思いました。
それではまた!